年月日不明
末永静行 テープ№3Ⅹ-001-B-1
(途中から・・・)
ならせて頂きたいという願いが、ね、どうすれば、どういうような在り方になれば有り難くなれるかということをいつも考えておく信心が大事じゃないかと思う。
私は、まあ、それは様々にあるんですけれどもね、夕べでした、夕べ、もう御祈念が終わって御理解を終わってから家族の者がお届けに出て参ります事ですから、もう十時ちょっとすぎぐらいでしたでしょう、家内が出て参りましてから、栄四郎が御祈念が始まるころから足の太もものところが本当に痛むんです、痛い痛いとこういうわけなんです、で、まあ、揉んでくれというから、今日は僕お父ちゃまに言い訳をしたからと痛い痛いとこういうわけなんです、それはそうかも知れん、ちょっと痛かという、その、辛抱しなきゃでけんと家内が申しましたところが、家内にいうことがですよ、辛抱せろ、辛抱せろちいうてから、そげなんことじゃいかんちこういう訳ですね、お母さんなら辛抱ちいうことはどげなんこつかしっとんのう、ちいうから言うそうですもん、辛抱ちゃ痛かつばじっとこらえるとば辛抱くさいちいうたらね、辛抱ちいうことはね、修行ちいうことでなからにゃいかんちいうて言うたそうです。そんならそれはあんたが修行そげん思うならば、下へ降りてから父ちゃんにお詫びをしてこじゃくてちいうてから下りてきて自分もその、家内自身もですね、まあ、その、おうた子に教えられるという気持ちでね、恥をかいたごたる気持ちでそのお届けにここへ夕べ出て来てるんですよ。
辛抱せろ、辛抱せろちいうてから、辛抱てどげなんこつかしっとんのうち、辛抱ちいうことは修行ちいうてから、そげん分かっとるならあんた、そげん、そしていうこつがよか、昨日お父さんに、昨日は吉木のほうじょう屋でございましたですから、学校から帰ってから兄ちゃんと一緒にほうじょう屋行きを話し合ってるらしいんですね。ところが、後から、その人はごろがすの、兄ちゃんに話し合ってるふうじゃないですもん、自分の独断でその私に裁いていきよるわけなんですね、それで、今日は麺やらでるからほうじょう屋に行くち、それでその百円づつくれとこういう訳なんですね、私はそげなん事いらんから十円づつでよかろうと私は言う訳ですたい、そげなんこつじゃほうじょう屋に行かれんち、んなら二十円にしてやろう、三十円にしてやろう、結局三十円になったんですね、そしたら、兄ちゃんと二人だから六十円、そして、久保山先生からここでそとのうてから言って六十円もらって来て、そこでいう事ですもん、おとうちゃま、この六十円ちいうのは、もうこれはもうやっぱちょうどおかげ頂いとったちいう訳ですたいね、もうここの中にちょうど六十円しかはいっとらんやったそうですたい、だから、もうこれはもういわば感ながらでのが分かったちいうわけなんですね、後がいうこつがよかですもん、僕は初めから三十円でよかったち思いよったち、けれども百円ちいわなん、お父さんがやっぱやらんから、(笑い)というてからもう、そのいうよう事でですね、その、お父さんが呼ぶにはぺてんにかけたと言ったようなことをですね、やっぱ痛いから気になったらしいですね、このままお父さんの言うことを聞かんでからやっぱ怪我したりしておりますから、このごろ子供ながらにそれが少しづつ分かっていくんですね。
それで、まあ、そんな事を子供の聞かせて頂きながら思うんですけれども、確かにあの辛抱だけじゃいかんという事ですね、信心辛抱さえしとればと仰ったりその辛抱というのは修行と思うて辛抱させて頂くと言うのでなからなければですね、今日私はが言う有り難いということになってこないです、私がもう辛抱しときゃおかげというて、その、歯を食いしばって辛抱するのではね有り難くなれないのです、むしろ、我が強うなるぐらいな事です、辛抱力が強うなるということは我が強うなるということです。
ところが、これは辛抱、その、神様の、いわば、修行させて下さるんだという内容で辛抱させてもろうたら、辛抱させて頂いた後に、あー辛抱して良かったという確かに有り難いものが頂けれるようですね。
昨夜の御祈念に月次祭にだけしか参ってこん、大変おかげを頂いておる人なんですけれども、たまには参って来るけれども、その代りに月次祭はきちっと参って来る、で、その方に私が話すんですね、ちょうどその人がここでお届けをする前に福島から田上さんの息子が参って来ておりました、それがちょうど一年前にちょうど一年前に、単車をとられたんですね、単車を買うたばかりでとられたんです、それけん、もう本当にあんた買うちゃならんというとば買うちから、もうお届けをせんなりに買うたからこげなんこって、母親が子供をつれてからその事のお詫びやらお願いやらに来た、見えたんです、で、それからその事をまあお願いさせて頂いたんですね、ところがちょうど一年目にこの前の月次祭の日に出てきたんです、この十日の月次祭にだからお礼に出てきましたがね。
それが、話を聞いてみるとですね、お願いをして五日目にその単車をとった人が事故にあってる、ちょっとした事故になっとるわけです、ね、ですから、単車は番号がない、いろいろ調べられるもんですからね、もう調べられる途中にですね、これはばくろうすると思ったんでしょう、東京に高飛びしたんです、若いもんですたいね、それで一年もしてから、帰ってくりゃ、もうほとぼりをせめとろうというので、一年後に帰ってきたところ、ごようになったんです、そして、あんたがたのほんのそこのもの置き入れたっきりそのまま帰ってきたんですね、五日間しか乗ってない、神様の働き、で、私はその事をですね、○○さん今、お礼に出てきとるのはね、一年前にこうして単車を取られて、もう、それこそ、買うたばっかりやけん、おしゅうして応えんで、どうぞ出てきますようにで、言う、まあ、お願いに来てからもう五日目にそう言う素晴らしい働きを頂いておかげを頂いておるんだと、だからね、私はこの頃思うのに、この本当に何も分からんなりにただお願いして下さいと言うてお願いだけで神様がこう言う働きを見せてくださる場合もありゃですたい、もう、それこそ、もう百里百かんつんだっちゃ、それこそ、現あだの、その、よさを乗せるじゃないですけどね、一門にもん例えばもらったっちゃ有り難いと思うてばせきもあるけれども、百里百間積んだってばせきによっては代えられないと言うようにですね、神様がそう言う風に出てきなさる場合もあるって、ね、なんに、自分が悪るうしてからとられといてからといったようなことは仰らん、とられました、もう本当にこげんおしい事はなか、こげなん歯痒い事は中、どうぞ出てきますようにと言うだけでもです、一門、二門でも神様は動いてござると言う感じがするでしょうが。
先日から、むつやのあの御祝儀物を番頭さんが落としました時にはね、その話を私はしました、これは田代さんただのお願いじゃいかんって、ね、これは、真剣にさせてもら話にゃけん、店主の田代さんが、またその時にうかつかとった信二さんがお詫びをせにゃ行かん、と言うて、もう本当にお詫び一筋でそのおかげを頂いてから、田主丸から川島の間で落とした奴がなんとその翌日北野の警察から連絡があって、北野までいとった、おかげでたくさんの品物の中に、もう、それこそ、こまの一つ減るはずはないですよね、みんなお届けしておるですから、まあ、届けられておったと言うようなおかげ、これなんかはもうお願いだけじゃ行かんと言う感じがする、やはり、そこに本気に気付かせて頂いて、詫びるところはお詫びさせてもろうて初めておかげになったと言う感じがする。
そこで、あんたんところの当たりの場合なんかはどう言う事になるだろうかねというて私は話すんですね、もうこれは済みませんでしたちいうて詫びたんね、お願いだけじゃいかんばい、これだけのおかげを頂いておるだからと私、あんたのところの場合なんかは、もう、とことんお礼だけでおかげ頂くだろうが、さぁーとことんお礼の申し上げれるような信心が出来とるだろうかと言うてとまあ言うたことでした。どんな場合でも御礼一筋以外にはなかってあんた方は、そして、まあ、もう時間でしたから下がってからあちらに下がって、本人、実はまあ、いうなら、間違いのないこうして信心をしておるといったような意味のことをね。
この頃から月次祭の時に、私がおかげを頂くとです、頂上を極めると、後はもうじだばしいしていくごたる、もう先生、あんた後からぼちぼちこんのうち言うて自分な下り坂じゃけんと思うてから、走っていくようなことになっておかげを落とすんだけれども、あんたの場合はそう言うようなことはない人間が慎重だから、ね、けれどもこれは信心の進展は一つもない、ね、いわば、それはどういう事かと言うとです、有り難うなって行っていないという事である、これだけの広大なおかげを頂いておるという事は分かっておりながら、これだけの広大なおかげに対するところのお礼心とか、有り難いと言う心がないから、日参り一つ近いところにおって出来んのじゃないかという事である、ね、そうでしょうが、私、信心と言うものは一年一年有り難うなって行くものであり、どう言う在り方になれば有り難うなって行くだろうかと言うふうに焦点をおいてなら、その有り難いもがです、じっとしちゃおられん、いわゆる、お礼参りさせてもわにゃおられん、お詫び参りしてもらわにゃおられん、お願い参り、そこは段階ですから、どうでもいいのです。ね。
どうでも私はそう言う意味でです、お互いのそれぞれの信心の段階に置いてから、お願い事と言うものが成就していくわけですけれども、一番最後のです、お互い、本当に御礼一筋でいよいよおかげの頂いていけれる、御礼一筋で信心がいよいよ勢いだって来る、ね、そう言うおかげを頂くために、お互いが本気で有り難うなるという事に焦点をおいての信心でなからなければ、頂上を極めるともうさぁー人間が慎重に出来た、あれが人間がですね、軽率できとったらこの人なんかはもうすぐおかげを落とすタイプです、タイプと言うか、ほとんどおかげを受けておるです、ところがどうしてどうして、人間が、それこそ、生まれつきしっかりしてますもん、生まれつき人間が立派ですもんこの人なんかは、ですから、あれがおかげを落とさんで済むばってん、ただブレーキば聞かせておると言うだけであって、信心の目指しとするところの有り難うなるという事には一つも有り難いものにはなっていないという事、ね。
そこで私は本当にこのどう言うような生き方、在り方にならせて頂いたら有り難うなれるだろうか、有り難うなれるだろうかという事になってまいりますけれどもね、古賀先生がここへ修行に参りました当初にですね、言ってます。それはもう、言うなら、子供の時から、いわば、お母さんの言うなら体内から、私共と同じ、物心がついた時には金光様につれてまいられておったという訳なんですから、信心は長いのだけれども、しかもお道の教師まで拝命をしとるんだけれども、しかも長年親教会で修行させて頂いておったんだけれども、有り難いと言うものが分からなかったと言う、ただ信心を分かっていくだけであった、そこで、いやおをなしにここに修行にきたからには結局自分の我情我欲というものをとらなければ、自分の思いをとらなければ私の信心にはついちゃこられんのが少しづつ取る気にならせて頂いたら、ね、信心が有り難いという事が椛目にきてから分かったといったようなことをいってます、それはとっただけ有り難うなる、一年半になりますかね、今日ではそれが段々取り除かれて行けば行くほど有り難うなってきた。
昨日、中西さんが古賀がさんの事でお夢を頂いておられますようにですね、本当に、もう面白いですね、神様の、面白いち言うちゃならんのですけれども、はー今日はこんなこと聞こうてんいうじゃろうかというてから昼頃、お食事の時に話した事でしたけどね、ある教会の先生、やっぱ同期なんです先生なんかと、ここの近所の教会なんです、もう先生と砂利をトラックでこう引きよるわけなんですね、一生懸命二人ともやって、砂利をこうしてから、またそのこげんじゃば組む、またその砂利を積み行こうとしてるわけなんです、ところがその同期だったその近所の先生がですね、古賀先生、まあ良いじゃんのう、下りてから一服せんのうち言うてからその一服させござる、片一歩はもう一服するとがおしいとして答えんと言うふうで、その、また、その、行こうとしておるところを頂いたと。
砂利と言うのはね、字に書きますと、石が少ないと書いちゃる、利は利益の利が書いちゃる、石と言うの心である、意思に背くとなんとかかんとかというでしょう、例えば、本当にお徳を受けたいとか、有り難くなりたいと言う意思が少ないという事、そして、利益のおかげの方だけは求めておるというわけなんです、ところが、古賀先生の場合なんかはこの石がまた次の石を取りに行こうというその意欲がですかね、もう勿体のうして、この頃は有り難うなる事の方が楽しいなもんだから、その、一服するなんかもう勿体のうして応えんという事に段々なっていきよるという事。
そしたらですね、昨日、ここに、今朝も参っておられるのですけれども、日参しておられる方なんですね、まあただお月次祭に参ってから、もうそこの先生は怒りなさること、怒りなさること、ちょうど古賀先生がの事で頂いておるそこの教会なんですよ、もう怒りなさること、怒りなさること、もう椛目に参ったらもういっちょん一人でん帰ってくるやつはおらんと、私はまだそげん年をとっとるばってん、椛目の大坪さんには負けやせんばのうちいうてから腹かきなさったという事なんですけれどもね、やっぱりそれではね、おかげにはなってこんですねその教会も、とにかく一服する事がおしゅうして応えんごとならなければ信者は増えやしませんよね。
まあ、それは余談でしたけれども、それとてもそうでしょうが、もう有り難いというものが本当に少しづつ分かってきたらですね、一服するとがおしゅうなってくる、ね、おかげを頂いてからです、ね、もうこのおかげば落としてはならんち言うて慎重になっておるだけではね、おかげちいう事が分かっても俺は思うておるけれども、なら自分を躍動的なもの、次の有り難いものに自分というものを押し上げていこうとするような働きになってこない、有り難くならせて頂くという事を焦点にしてというか、のおかげでなからなければならないという事、それには自分というものを段々なくしていくと言う事がそれだけ有り難うなっていくことだという事、だから、いうなら、我情我欲を離れて真の大道を開き見らせて頂くためにです、ね、神徳の世界を神徳の世界と分からせて頂くために、我情我欲をとる事に本気にならなければいけないということ、でなかったら有り難いと言うものは一つも増えて行かないということ。
まあ、我情我欲と言うと余りにも漠然としておりますけれども、言うならば、どういう事かと言うとですね、第一見栄をとらなければいけません、見栄があっちゃおかげにはなりません、もうそれをまあ、ある意味ではプライドを捨てようという事も私は申します、ね、もう見栄があるためにです、見栄のために有り難くなれるはずのが有り難くなれません。
次にはね、自分の心の中にある卑しい、汚い心をね化粧をするようなことではおかげにはならん、汚い心ば引き出そうとするのじゃない、取り除こうとするのじゃなくて、それにきれいに化粧をしてからごまかそうとする心、そう言う心があったんではいよいよ有り難くなれません、ね。
今日は有り難くならせて頂くという事の焦点をですたい、例えば自分の見栄が、ははーこれが自分の見栄だろう、ははー自分には自分の汚いものを出そうとせずにかえって自分の中に押し込んどいて、その上から化粧をしておるような自分を気付いたらです、そう言うところを徹底私は取り組んで、除かせて頂こう、いわば、見栄を取らせて頂こう、プライドなどはかなぐり捨ててしまおうと言う気にならなければ本当の意味での有り難いと言うことにはなってこないと私は思うのです。おかげを頂かなければなりません。